「断捨離」という言葉が誉めそやされて、どれくらいが経っただろうか?
Wikiによると「断捨離」という言葉は、
1976年の「ヨガの考え方と修業法 上巻(著:沖正弘)」に初めて登場。
その後、2009年に発売された書籍『新・片づけ術「断捨離」(著:やましたひでこ)』で、世間に広まったようだ。
前々から思っていたのであるが「断捨離」という考え方が、どうもシックリ来ない。
なぜ、絶たなければならないのだ・・・。
なぜ、捨てなければならないのだ・・・。
なぜ、離れなければならないのだ・・・。
そんな想念がどうしても頭をよぎってしまう。
しかし、である。
モノを捨てなければ、家じゅうが、ガラクタだらけになってしまう事は理解できる。
使いもしないモノを、いつまでも未練がましく取っておくのは、良くないようにも思う。
と、いろいろと考えているうちに分かった。
物理的なモノは捨ててもいいが、スペースを取らない、思い出や知識までは捨てる必要がない。
ここら辺の定義や考え方が、曖昧だったのである。
写真や映像、書籍や日記など、10年や20年前であれば、物理的な存在だったものが、
今ではほとんどがデジタルデータに取って代わっている。
鑑賞や感傷、干渉や完勝、勧奨や観照まで、捨てる必要はない。
テクノロジーの進化が加速するにつれて、むしろ大事に取っておくべきものだと思う。
という事で、「断捨離」に対義する言葉が必要になると思い、ちょっと考えてみた。
紡拾合(ぼうじゅうごう)である。
「つむいで・ひろって・あわせる」
分かりやすく言えば、
「今まで紡いできた知識や技術を、さらに拾い集めて、ドンドンと合わせてみる」
そんな事が、これからの時代は重要なんじゃないか・・・というニュアンスの言葉である。
普通に考えて、知識はや思い出は、集めれば集めるほど、
貯めれば貯めるほど、良くなって、味わい深くなると思う。
さらに、紡拾合という考え方自体が、機械学習っぽくて、これからの時代を予感ような気もする。
捨てちゃダメだ!集めるのだ!!!
表には出していないが、今年は、機械学習にドップリと浸かっている。
紡拾合という言葉が、物事の摂理を突いていれば、良い結果が出るハズだ。
という事で、本年もありがとうございました。
一足先に、年末のご挨拶です。
オーツボ 拝